83歳のYouTuber「でん爺」、戦後北朝鮮からの引き揚げ話を語る
父の厳格な姿
父が召集を掛けられ陸軍に入隊したため、ある日彼は父に会いに面会に行ったそう。
そのときの父の厳格な姿を今でも鮮明に覚えているそうです。
面会に行ったら軍服を着て戦闘帽を被った親父が出てきてね、こっちは遠くで見てんだ。
見てると出てきてね、衛兵に(敬礼しながら)「ただいま面会来たので出てまいります」ような声で言ってんだろうな。何言ってるのわかんないけど。
(陸軍基地から)出てきて外で会って、当時おはぎを作っていた。おはぎを作っていって、座るとこなんかないんだよ。喫茶店とか食堂なんてないんだから。
でその陸軍基地のそばの、ちょっと離れたところの道路わきの石みたいなとこに座ってねそこで風呂敷色広げておはぎをね、親父と一緒に食べたことある。
ただもう20分から30分くらい会えたかな、ただそれだけで。あれほど酒を飲んでた親父がね、おはぎを「甘かった」とか言ってね、「じゃあまた元気でやれよ」というような感じだな。
すぐ帰っていって、「ただいま戻ってまいりました」って(陸軍基地に)入っていった。
着の身着のままの逃避行
5月24日には続編の「【北朝鮮での話②】北緯38度線へ向けて」を公開。
日本の敗色濃厚となった戦争末期、でん爺は母と兄と一緒に、防空壕で空襲の難を逃れていましたが、空襲が増えるたびに避難する日本人も増え、いつもの防空壕では収まりきらなくなったそう。
広い防空壕を求めて南へ進んだそうですが、家族は家財など一切持たず、着の身着のままだったそうです。
15~20人程度の旅団を組み、汽車で南進していたところ空襲に遭い、汽車が動かなくなったそうです。
止まった場所が高原で、このままその場所にいては戦闘機の餌食になってしまうため、戦闘機がいなくなったのを見計らって近くの森に逃げ込み、周りが暗くなるまで待ったそう。
以降、昼は茂みや建物に隠れ、夜に行進する日々が続いたそうです。
とりあえず家族だけで固まって、もう全てやっていかないといけないというんで、3人寝る畳1畳分のゴザをくるくると巻いて担いでね。
それで寝る場所にそれを持って行っていって地ならしして、寝たものです。
ある日、日中に移動することがあり、そのとき運悪く戦闘機が襲来して肝を冷やしたことがあるそうです。
皆がたくさんいるところへ戦闘機がこう飛んでくるんだな。来るんだけども、音が聞こえないんだよ、低空で来るから。
パッと音がしたと思ったらほんと低空だね。20メートルか30メートルくらいロと思うけどね、あっという間にグワーッ、そんでまたグワーッって行くんだよ。
あれはもう度肝抜くぐらい怖かったよ。
終戦により変わったこと
ある日、農家の小屋に14~15人で隠れていたところ、当時のソ連兵が小銃を持ち小屋に押し入って、金品を差し出すよう脅してきたそう。このときはじめてでん爺は日本の敗戦を知ったそうです(1945年8月20日ごろだと話しています)。
終戦を境に変わったこととして、「朝鮮人の態度」を挙げています。
終戦まで日本人との間にトラブルはなかったそうですが、終戦後彼らの態度が豹変したことを覚えているそうです。
例えばね、目して覚えているのは、そのころでも途中で逃げて「これが最後だ」って言う人は荷物のなかに遺灰とかね、骨壺はあったか分からないけど、そういう大事なものなんか全部ね、取り上げられて、朝鮮人(に)だよ。
全部土に、下に叩きつけられて踏んづけられて、っていうのを見たよ。
でん爺はそれでもなんとかアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインである北緯38度線付近まで南下することができ、設置されていた収容所で冬を過ごしたと話しています。
100人もいなかったと思うけども、そのぐらいの人が収容されるような、住めるような場所があったんだよね。
これは大きなね、まあ私はね今で思うとね、遊郭みたいなとこではなかったな。









